「圡𣘺」の由来

土橋の町名は、源頼朝が右大将となり、鎌倉幕府開府を前に、八幡神社(現白幡大神)が長尾山威光寺(現妙楽寺)に参詣のおり、この地に立ち寄ったと思われ、鎌倉古道と呼ばれている道筋とドンドン川(現矢上川)が交差する所に架けた橋にちなんで名付けられました。

もともと土橋の漢字は、「圡𣘺」と書き、現在常用漢字では使われていません。
現在でも「圡」は土橋会館に、「𣘺」は納涼盆踊り大会の手拭いに使われています。
その時代のものと思われる、由緒ある書体を残しました。

土橋会館の看板

土橋は「竹の里」

土橋での筍の栽培は、明治時代に始まりました。昭和の初期から土地区画整理前までは、手入れの行き届いた竹藪は、畑地の7割にもなり、筍の季節には日に7.5トンほども出荷され、「土橋の筍」として市場を賑わしたとのことです。

そして、どこを歩いていても「竹」は目の中に飛び込んでくる光景で、「竹藪の中に家が建っている」と言って良いほど、家の近くまで鬱蒼とした竹藪がありました。
町内に点在する小さな竹藪の様子から、当時の竹藪の面影を知ることができます。

また、川崎市立富士見台小学校や川崎市立土橋小学校の校章などに、「竹」がモチーフされています。
土橋は、この様に「竹」で覆われたイメージから「竹の里」とも呼ばれています。